『ある結果を得るのに、ある方法を自分の責任で選ぶこと、またそれを通すことこそ自由というものではないだろうか。自由がいつも修練と表裏しているのはそのためである。自分に出来ることでなければ、選ぶことは許されない。だから、自由は自分で克ちとらなければならないものである。』
政治の話をしているわけではない。これは、カレーライスについてのお話だ。
車検を通したおかげで、すっかり懐がさびしくなってしまったので、今日は家でおとなしくしている。書棚から吉田健一のエッセイを引っ張り出してきて、ぱらぱらと拾い読んでいた、その中の一節である。
我々がカレーを食べようと思ったら、小麦粉を炒めるなり、ルウを買ってくるなりして、その作り方を自ら選ぶことをしなければならない。また、それができることこそが 「自由」 なのだと吉田健一は言っている。
ただそれには、カレーの作り方を知らなくてはいけないし、作り方を知っているだけでは駄目で、じゃがいもの皮やなんか、ちゃんと剥けなくてはいけない。つまり、カレーを作るには 「修練」 がいる。
美味しいカレーを作れるように修練をして、「カレーを食べる」 という自由を、自分で克ちとらなくてはならない、というような意味のことを、例の酔ったような言い回しで、くどくどと書いている。
要するに、まあ、どうでもいい話です (笑)
そんなエピソードを読んでいたら、晩飯はカレーにしようかという気に一瞬なったのだが、そのあとに、おでんについての一篇があって、
『酒飲みにとって、うまい酒さえあればほかに何も欲しいものはない。もしあれば、おでん位なものである。飲みたいから飲み、食べたくなれば、豆腐の一つも頼んで、別に懐と相談する程のことはなかったから、夜は長々と更けて行った。金をかけずに豊かな気持ちになれたので、第一、豊かな気持ちになるのに金をかけなければならないというのが間違っている』
なんて書いてあるもんだから、今夜はおでんにすることに決めた。