昨夜は、学生時代の友人たち九名が集まって、浅草の 〔飯田屋〕 で暑気払い。
どぜう鍋は “雰囲気もの” のようなところがあって、「ああ、いいね、オツだね」 なんて言いながら、うれしがって食べているけれど、実際にこれで腹を満たそうと思ったら、ひとりで五、六人前か、あるいはもうちょっと欲しい気がする。
まして、鍋は二人前用の小さなもので、これを食べざかりの四十代が九人で一斉に突つくということになると、どうしても追っつかない。
気の済むまでじゃんじゃん注文すればいいのかもしれないが、そういう頼み方は、なんとなく無粋な感じがするし、一人前追加するごとに財布の中身のことを考えてしまう自分の度量の小ささに、自尊心も傷つくし。
こういうものは、二人くらいで差し向かいになって、盃をやったりとったりする合間に、ちょっと箸をつけるというのが、江戸っ子流の 「粋」 というやつであって、どぜうを腹いっぱい食おうなんていう了見が、そもそも間違っているのだろう。それはわかっている。
わかってはいるけれど、飲んだわりにはなんとなくお腹が満たされないような、この現実の気持ちも大切にしたい。
江戸っ子ならば、ここは食わずに 「やせ我慢」 をするところだろうが、江戸っ子じゃない我らは、躊躇なくラーメン屋に入って、こってりした久留米ラーメンを心ゆくまで堪能し、充分に満たされて、帰ってくる。