ミセスが所用で出かけてしまって、今日はひとりでお留守番。
「いってらっしゃい」 と、にこやかに見送ったら、近所のスーパーで、こっそりローストビーフなんか買ってきて、さっそく一杯はじめちゃう。
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原発、普天間、安保、そして国立競技場。
どれひとつとっても納得がいかぬまま、ゴリ押しに進められてゆく (ように見える) これらの政策について報道されるたび、考えるよりも先にまず 「なんだか、おかしい」 と感じているのは、僕だけではないはずである。
「考えるな。感じろ」
かつてブルース・リーは映画 〔燃えよドラゴン〕 の中で、こんな名言を吐いたが、僕も、どちらかというと理論的に考えることは得意ではなく、マスコミ報道に煽られるかたちで、極めて “感情的” にこれらの問題を捉えている。そのことは十分に自覚しているつもりだ。
原発の再稼動には反対だが、その理由を、具体的な数値をもって説明することが出来ないし、普天間の、今に至る経緯をちゃんと把握しているのかと言われたら、そうでもない。
安保法制など、付け焼刃の知識しか持ち合わせていないし、憲法についても、確固たる信念に基づく主張があるわけではない。
国立競技場に関しては、もう、わけもなく腹立たしいばかりである。
勉強不足と言われたら、ひと言もない。根拠も対案も示さず、「なんとなく、反対」 なんていう理由でゴネられたら、推進派の人びとはやりきれないだろうが、それでも、この負の感情は如何ともしがたい。
この漠然とした不満の原因はいったい何なのかということをつらつらと考えてみるに、これは個々の問題そのものよりも、やはり為政者側の、その 「結論ありき」 の頑なな姿勢に嫌気がさしている、ということに尽きる。
反対意見には耳を貸さず、質問にも答えず、自説だけを滔々と述べ、それをもって 「丁寧な説明」「十分な議論」 と言われたって、ねえ。
核のゴミの処分はどうするの? との問いに、「土に埋めて十万年」 なんていう答えしか返ってこないようじゃ、とても理解も納得も出来ない。したくない。大人げなく駄々をこねてみたくもなる。
いまの政府の方針をすんなりと受け入れられずに、「なんとなく、反対」 したい気分になるのは、こちらの勉強不足のせいばかりではないような気がする。
国民の心が、じわり、離れつつあることを、与党の人びとには 「感じて」 もらいたい。
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てなことを、酔うと、すぐに言いたくなる。
オッサンの居酒屋談義みたいなものだから、読み飛ばしてもらって一向に構わんのですが、本人はこれで、いっぱしのことを述べているようなつもりになって、なかなか気分がいいのです。
酔いから醒めて、改めて自分の書いた薄っぺらな文章を読んで恥ずかしくなることはわかっているのだが、あえてこのまま晒しておく。
いま、団鬼六の小説を読んでいて、ちょいとマゾっ気が出てきているもんで。