血圧は低くても寝起きはよい方で、今日も六時前に目が覚める。
ミセスが起きてくるまで、あと二時間くらいはあるだろう。温かいココアをいれて、読みかけだった、眞並恭介著 〔牛と土〕 を読む。サブタイトルは 〔福島、3.11 その後〕。
*
五年前の震災と、それにともなう原発事故によって生活が一変してしまったのは、なにも人間ばかりではない。そこで飼われていた家畜たちもまた、被災し、被爆した。
食用としての命を全うできなくなった牛たちが、人が住めなくなり、荒れるがままであった故郷の田畑や里山の保全という使命を与えられ、“役牛” として生きる道を見出してゆくまでの、牛と、牛飼いたちの、地道な戦いの記録である。
無人となった村の農地は、放っておけば、ほんの数ヶ月で荒れ放題に荒れてしまう。いつの日か住民の帰還が叶ったとしても、これらの土地を再び 「使える」 田畑に戻すには、大変な手間と時間がかかる。
そこで、被爆した牛たちを一定の管理の下で村に残し、その旺盛な食欲によって田畑に生えてくる雑草を食べ尽くさせ、農地の保全に一役買わせようという試みが行われている。
出荷することが不可能となり、経済的に割りの合わなくなった家畜を飼い続けることに、どれだけの意味があるのだろうか。畜産農家の人たち自身が、そのような葛藤を抱えながら、それでも、牛と共に生きてゆこうと腹をくくり、手探りで前に進もうとしている。
そんな彼らの心情に思いを寄せることなく、一方的に 「安楽死処分」 を通達してくる政府や、これぞ 「縦割り」 というべき行政に対する憤りも描かれてはいるが、このルポの眼目はそこにはない。
本書が描き出すのは、人間が招いた災禍に巻き込まれた家畜たちを、どうにかして生かしてやりたいと願う畜産農家の、牛飼いとしての “矜持” である。
『どうせ農作物は作れないのだから、桜の木を植えて公園みたいにしてやろうと。いずれ線量が下がって人が入れるようになれば、住むことはできなくても花見に来てもらえたらいい。牛が下草を食べてくれれば、人の手間はかかりませんから一石二鳥です。私は土地を守ってくれる牛のありがたさを痛切に感じています。』
失われた故郷の “未来” を見据えて、それこそ、牛の歩みの如き努力を続けている牛飼いたちの姿に、感銘を受ける。
同時に、このような人びとの思いを置き去りにしたまま、原発の再稼動を急ぐことがあってはならないと、改めて強く思う。
*
朝飯は、ベーコンとタマネギのスープに、ピザトースト。
半年ほど前に出席した結婚式の、引き出物がわりのカタログギフトで頼んでおいたローストビーフセットが届く。
今夜はこれで雪見酒でも出来るんじゃないかと思っていたのだが、横浜では、雪は降らなかった。