アウシュヴィッツと聞いて、「ナチス」「ユダヤ人」「ガス室」「虐殺」 といったキーワードはすぐに浮かんでくるものの、では、そこで行われていたことをリアリティをもって具体的にイメージしようとすると、これが出来そうで、なかなか出来ない。
この映画は、それを、全部見せる。
もちろん、その見せ方には工夫があって、観客が嫌悪感をもよおす一歩手前のところでうまく処理され、映画として一定の節度は保たれている。
すべてを映さずに、すべてを解らせるという、38歳の新人監督 (ネメシュ・ラ―スロー) の、その演出テクニックを、まずは讃えたい。
収容所に送られたユダヤ人は、ひとり残らず抹殺されてしまうものだと思っていたが、わずかながらも、そこで仕事を与えられ、命を永らえる者もいた。
彼らは、自らの延命と引き換えに、日々大量に連行されてくる同胞のユダヤ人を、すみやかにガス室へ誘導し、そしてまた、その死体を片づける任務を負わされる。それは、普通の精神状態では耐えられないような仕事でもある。
彼らは、女子供を含む大量の死体を目の前にしても、なんら感情を動かされることもない。
自分たちが、同胞をガス室に送っているということに対する良心の呵責も、ない。
すくなくとも、ないように見える。
一切の感情を意識から切り離し、与えられた任務を、ただの 「作業」 として、黙々とこなしてゆく。この収容所で生き抜くための、それが唯一の手段だからだ。
そんな主人公が、自分の息子と思われる少年の遺体を前にして、ユダヤ教の教義どおりに、正しく埋葬してやりたいと願うようになるのだが・・・
親として、人間として、当たり前の感情を持つことすら許されなかった、狂気の時代の物語。
怖いのは、しょせん映画さ、過去の悲劇さ、とばかりも言っていられなくなりつつあることだ。
*
映画のあと、伊勢佐木町の 〔じゃのめや〕 へ。
混雑する昼飯どきもすこし過ぎて、店内は比較的のんびりしている。
「お好きな席にどうぞ」 と言われたので、空いているテーブル席に座って待っていたのだが、一向に注文を取りに来ない。
仕方なく、女将さんに声をかけたら、「あら、いたのォ?」 だって。
普通ならムッとしちゃうところだが、その言い草が、あまりにもあっけらかんとしていたものだから、こっちも思わず笑ってしまって、「いたんですよォ」 と返す。
老舗牛鍋屋の心意気がたっぷりと盛られた旨い牛丼で、瓶ビールを飲む。